Thursday, November 30, 2006

不機嫌病の世代—アドビの講演から

国際フォーラムで開かれたADOBE ACROBAT 8のプロモーションイベントに行ってきた。明治大学文学部教授齋藤孝氏の講演があり、「つまらないおじさんの話」という声もあるにはあったが、私は「中年の男性は不機嫌病にかかっている」という指摘一言で断然気に入ってしまった。題名は「脳を混ぜあうー知の交換と共有によるチーム力向上の極意」。製品の機能紹介と思って参加した私にとってイベント自体は成果なかったが、まあこのレクチャーは納得だ。

「冷えた身体からは良いアイディアは生まれない」「思考は身体的作業を模倣する。また身体的作業には行為の歴史が組み込まれている」つまり「思考は身体に支配されており、それを磨く事で思考も磨かれよいアイディアも生まれる」のだ、と。

結局リーダーが上機嫌でいることが大切。上機嫌でプレッシャーをかけるのが良いアイディアを引き出すことにつながるという。そして女性の方がアイディアを多く出す、男性は女性に比べて固まりやすいープライドが高く心が固い、そこからは良いアイディアは生まれない、と。特に団塊の世代の男性は不機嫌病にかかっている、という。利益を生み出す新しいプロジェクトをリード出来るようなリーダーは上機嫌でいることが大切、という上機嫌な教授の講演であった。

団塊の世代の男性が不機嫌で心が固いという表現には全く同感だ。見回してみると仕事も家庭も不機嫌病という男性が多い。いつも機嫌良く楽しいという男性はたった一人しか知らない。人間だから常に上機嫌でいることは難しいと思うけれど、誰だって不機嫌な人のそばにはいたくないし近寄りたくないだろう。

団塊の世代まっただなかの男性にこの講演の話をしてみる。
「本当、そういう奴が多い。クラス会に行っても話が合うのはほんの少ししかいない。仕事もできないのにプライドだけが高くて柔軟な考えが出来ないのが多いよ」
この人は自分の生活自体が自立している。天気が良いと今日は洗濯日和だ仕事に出る前に干して行こうと思う、と言い休みには山や美術館を巡る。

他の男性。やはり団塊と言われる世代。
「しょうがないでしょう不機嫌な人がいても。会社ではそろそろ定年。役職があってももう辞める人と思われてる。家では妻が自分の生活を楽しんでいる。他に就職をさがせと言わんばかり。自分は飲み仲間と楽しむ機会があるからいいけど、何もなかったら悲惨だよ」
機嫌良く人に接していると自分は思っている風の人。

「プライドが高いのはそれだけの地位にいたからですよ。決済しなくてはならないことが多ければいつも上機嫌でいるなんで出来ないし。私は陶芸という趣味があるからいいけれど、趣味もない仕事人間だったら年金生活は辛いだろう。不機嫌な顔にもなるでしょう」
とこれは、人を見下した態度がちらほらする、と私が感じる人。

「そういう人もいるでしょう。劣等感の強い人ほどプライドが高いよね。それに会社で十分認めてもらえてないと思っている人はとっくにあきらめているから会社では不機嫌。家ではどうなのかなあ。奥さんにも愛想つかされてるんじゃないかな」
これはばりばりと一線で活躍してきたと思っている会社人間。よく人をどなる。

この病気にかかっている人もいない人も共通して「自分はそんなものとは無関係」と思っている。ん、もしかすると自分もそうかもしれない、と一瞬でも考えることが出来る人が増えるならこの病気はかなり減るんじゃないだろうか。

ちなみに齋藤教授はくねくねと動く柔らかい身体もだが、声もかなりユニークだ。柔らかい身体となよっとした風貌と甲高く声帯が壊れかかったような声とでインパクトがある。30才代後半かと思ったら、自分も「不機嫌病にかかる境目の45才を過ぎている」と、上機嫌の教授はおっしゃるのであった。

Wednesday, November 29, 2006

日本製電気窯の移設顛末記 東京から石川県へ

過去のコラムより
06.10.10
窯の移動や移設を時折請け負う。今回は日本製電気窯15キロワットだ。長距離の上に現設置場所と移動先の設置条件が考えられないほど厳しい。窯の重量は約900キロ。

某月某日

1トンのパワーゲートを準備して工房から窯を運び出す。これは雨も降っていた為に、ぬかるみの土で足場も悪く、工房から道路まで取り出すのに7人で6時間かかる。

  まずヒュース・テン特製のキャスター板を2枚準備し、窯の足をジャッキで片側ずつ持ち上げてキャスターに乗せる。窯場からやや坂になっている地面に合板を 敷詰めてそろそろと移動を始めると24ミリの合板がメリメリと音をたてて一つのキャスターが沈み込む。地面が平でないために3枚敷かないと板が重みでし なってしまい動かないとわかって合板を買い足しに走る。

 キャスター 一個の許容加重が400キロなので一枚に5個使い2トンに耐えるキャスター板を2枚使用、合計4トンに耐えられる計算だが、窯を乗せてでこぼこの地面を移 動させるのはキャスター板にとってもかなりつらい。わずか5ミリの板の段差でもその下のぬかるみが影響して押す人間はへとへとになる。

  雨が一時激しくなり、人間は泥まみれになりながら窯にビニールシートをかけて濡らさないよう最大限の注意を払う。30cm、50cm、と進みようやく道路 まで運び出し、パワーゲートをバックで寄せていざゲートに全員で乗せる。ゲートを操作するがウィーンと音をたてて、ゲートは上がらない。エンジンをかけて やってみる。やはりゲートは全く動く気配を見せない。何かがおかしい。

  近隣からフォークリフトを扱う人に来てもらう。フォークリフトで片方をゲートにかけてもちあげ、両方の力で何とか持ち上げられないか?1トンのフォークリ フトを扱うその人はフォークリフトではかなり窯を傾けて持ち上げることになりレンガが痛む可能性がある、という。近隣の人も含め10人ほどであれこれ意見 を出すがやはりフォークリフトでは無理という結論になった。

 レンタ カーの会社に電話する。もう6時過ぎてかなり暗くなっている。作業する人間も疲れ果てている。いろいろ調べてもらいやっとわかったことは、このパワーゲー トが600キロしか対応しない、ということだった。これは夢にも考えられない事だった。実際に1トンまでOKという確認を何度もして借りたのだ。まさか車 自体が600キロしか許容加重がないなどと想像もしなかった。担当の人自身1トンと信じて疑っていなかった。担当者も責任を感じてあちこち車を手配してく れるがすでにしまっている会社も多い。

 やっとクレーン車を扱ってい る会社を見つけたと連絡が入る。車で20分離れた会社までクレーン車を見に行く。するとクレーンは車体床から1.3メートルしか高さがない。それでは 1.5m高の窯は乗せられない。結局、日を改めて車と人を手配し、移動させようと決める。幸い道路は庭の延長のような私道で窯をすみに置く事ができる。雨 がかからないよう、保管中に事故がないように注意して道路際の家に寄せて置く。みんな汗と泥と雨でぐったりと疲れた、事故がなかったことはありがたい。

某月某日

保管中は窯が心配で何度か様子を見に行く。やっと人と新たなパワーゲートを手配できて移動の日がきた。今度は正真正銘の1トンのゲートを持つ4トントラックだ。宅急便のトラックが普通2トンだから、4トン車はまさに「巨大」でしかもトレーラーのように長い!

  今回はトラックが大きすぎて私道に入らないため窯をキャスターに乗せたまま大通りまで移動させる。そしてパワーゲートに乗せる。といっても簡単に事が運ん だわけではない。窯の重量でゲートになかなか乗せられないのだ。ゲートは坂になっていて乗せたと思うとゲートのストッパーが外れて、という繰り返しの末、 ジャッキを使い人力を使い知恵を使ってやっとトラックに乗せた。

 5時近くになっていた。トラックには2人しか乗れないので他にワンボックスとの2台でそのまま関越へ。みんな力を出し切っているので安全をみて上越で一泊。翌朝石川県へ向う。

  窯の移設先は保存建築物で昔の蔵を改造した工房。蔵への入り口は蔵特有の大きな登り框がある。これはいくら何でも乗り越えられない。そうかといって屋内の 作業なのでクレーンなど使いようもない。せめて全面の扉をはずして、と窯の扉を解体し始めるとこの扉自体が途方もない重さである事が判明。扉だけでも男性 4人では受ける事もできない。前面扉だけで3、400キロはあるのではなかろうか。半端な重さではない。日本の窯はなんて重いのだ!!重いなんてもんじゃ ない。少しは軽く作る努力をすれば良いのに、と、こんな事を言うとどこからか怒られそうだ。

 ジャッキで窯の両足の高さを徐々にそろえて上げて行く。50cmもの框の高さにしてからスライドさせて窯の片足を框の向こうに移動させる。しかも框は階段状になっていて幅が1メートル以上ある。そこを超えなければならない。

  幸い天井に太い梁が残っている。そこに1トン用のロープをかけ、窯の片方を通す。名前は知らないが重量物を留める時に使用する大きな金属の道具でギコギコ とロープを引いて少し窯が持ち上がる。そこで窯の足を1メートルの框をまたがせる。そして10cm移動。反対の足にロープをかけ直しまたそろそろと進め る。慎重にそれを繰り返し、両足の高さをそろえやっと向こう岸に渡らせる。またジャッキで数センチずつ片足をおろしていく。こんな事をそろそろじわじわと 果てなく繰り返し、途中で窯が傾きかけてあやうく業務災害になりかねない状況に会いながらフーっ、ロープをはずして窯場にやっと移設完了。

  午前中に作業を始めてからまた夜になってしまう。このまま帰路につくにはみんなあまりに疲労困憊していて運転も危険だ。幸いそこの家は広さが十分で母屋に 泊めてもらうことになった。そこで東京組5人は近所のお風呂屋さんで汗をながし、食事を済ませて仮眠。保存建築物の母屋には祖先の遺影がじっと見下ろして いる。広ーい畳があるのに私たちは何となく怖くて男女5人一部屋に固まって寝る事にする。夜中2:30起床、3時出発。

  途中で夜が明ける。空いていて走りやすい。誰も怪我をすることもなく、無事作業を終える事が出来たのがありがたい。でもつくづくと思う。窯を移動できない のでこのまま残して行く、とか新しく窯を買うほうが現実的だ、という声を良く聞く。それが今理解出来る。無理もない、人と手間と時間、費用を考えたらこん な作業を普通は受けないだろう。

 けれど一方で思う。使い慣れた、思い入れのある窯、自分が初めて持った窯、作品を生み出し続けた窯。自分そのものの時を刻む窯。私だって、場所をとると顰蹙を買いながら日本の窯を手離せないでいる。

 窯の移動はどうしたって利益にはならない。今回は大きく持ち出しになった。でもお客さんの気持ちはわかるし、出来る時には引き受けよう。

  この移動にはまだオチがある。帰りの北陸自動車道でのことだ。夜が明けた頃、名立谷浜のサービスエリアでガソリンの補給をした。4トン車の左にガソリンス タンドを挟んでワンボックスを止め給油を見ていた。トラックの給油が終わり今度はこちらのワンボックスにガソリンを入れ始めた。何気なく見ていたら、ト ラックがエンジンをかけるなり、運転席の下が火を噴いた。

 ガソリン スタンドの人は見て見ぬふり、知らん顔している。エンジンがかからず、運転していた技術の加藤さんが降りてくる。「今、火が出た」と知らせると彼は運転席 の下を点検する。そうしたらやっとスタンドの人が「今火を噴きましたね」と。そして他の車が来るからもっと先に移動して点検しろ、と言う。加藤さんが運転 席にもどりもう一度エンジンをかけるともっと大きく火を噴いた。私は思わず、「危険な事がわかっているのに移動させるなんておかしいんじゃないですか?」 と言い、さすがにスタンドの人も今度は何も言わない。

 結局加藤さん がトラックの下に潜りバッテリーターミナルのネジが緩んでいて溶接と同じ状態になったとわかった。半分溶けかかったターミナルを工具を出して締め直す。 バッテリーはガソリンタンクのすぐ近くにあるのだから大きな事故になった可能性もある。ガソリンスタンドの人は高速を走る車の、とはいわないまでも自分の スタンドに立ち寄った車に対して安全を見守る責任があるのではないか。幸い大事にはいたらなかったものの、私が見ていなかったらあのままトラックを行かせ たのだろうか。もう一度エンジンをかけたら危険な事を承知で、しかも明け方の誰も他にお客さんのいないスタンドで移動させろ、と言うだろうか。朝で不機嫌 なのはいい。そんな事は関係ない。でも職業に対する真摯さと責任感が欠けている、とおおいに憤慨したことだった。

 最初の、ゲート重量不足のトラックに始まり行きにはワンボックスのラジエータの加熱、帰りはトラックのバッテリーターミナルの発火、ハプニング続きだった。その中で誰も怪我がなく、無事に設置できた事は何よりうれしい。でも900キロって半端じゃない。

サムソンのこと

過去のコラムより
06.9.11

「優秀なウェブデザイナー」−といったらきっと昔のサムソンは怒っただろう。

サムソンはヒュース・テンのホームページを立ち上げ、管理してくれている人だ。香港で生まれ育ち、小学校でイギリスに留学、イギリスのパスポートを持つ。 日本のICU大学に留学して卒業、今のところ日本で生活している。時々エチオピアに行って写真を撮っている。カメラマン、ウェブデザイナー、英語教師。そ の中で彼が「優秀な」といわれて納得するのは職業としてのカメラマンだ。

主に舞台の写真を撮っているけれど写真の仕事だけで食べて行くのは難しい。そこで彼は写真以外の才能も発揮させる。英語教師としては引っ張りだこなので、 時々エチオピアに消えても生徒は待ち続けてくれる。ウェブデザイナーとしては友人と事務所を開き、いくつもホームページを立ち上げて実績がある。多才、と いうのは彼のような人を言うのだろう。自分では写真にこだわりがあるのだろうけれどコンピュータの知識、手腕、は普通人の追従を許さない。インターネット のページを開くと一瞬(と私には思える)のうちに、ページを読み内容を理解する。

自分が関わったホームページに次々と新しい、より優れた方法を見つけて取り入れる。ショッピングカートの仕組みをたちどころに調べて構築する。そんなわけ でヒュース・テンのホームページも常に前進している(のだがあとは私たちの準備しだいだ)が、なかなか彼の更新の要望に追いつけない。若者らしい純粋さと 繊細さ、時に押しの強さや性急さとで社会や私たちに怒ったり憤ったり。そうかと思うと自信にあふれた言葉のすぐうしろに傷ついたサムソンがいる。  

彼はたった4年日本の大学に行っただけで日本語をほぼ完璧にマスターした。読み書きでさえ。香港語(広東語や北京語ともかなり違うという)ともいうべき中 国語は母国語だから当然だがその他に英語と日本語がこれほどできればまず何をしても食べていかれるだろう。けれど青臭いサムソンは、自分はコンピュータの 知識で見られたくない、と肩ひじをはっていた。サムソンにとって英語や日本語の語学力で見られることはなおさら不本意だった。コンピュータや語学だけが自 分ではない、と思っている、もちろん私もそう思っている。  

そんなサムソンがやっと(才能があるのだから認めれば良いのに、と思っていたら)素直にウェブデザイナーを名乗った。そして今度は自分のホームページ(http://www.atashi.jp/) で始めて撮られる側になった。大学卒業以来好きな人はつくらない、と言っていた彼がエッフェル塔の下でバレンタインデーに待ち合わせた彼女に(恐らく)撮られた写真。  

旅は続く。ある程度の予定は持って出かけたが、いつ帰るかどこへ向かうかはっきりとは決まっていない。お金がなくなったら帰ってくるだろう。そういえば写 真もウェブのデザインも世界のどこにいるかはあまり問題にならない。それより文化の異なる人々に出会うことが何よりの宝になるだろう。サムソンはヒュー ス・テンの大切な友人だ。彼のことだから危険な場面に入り込むことはしないと思うが、無事に早く帰ってきて欲しい。沢山の写真と話を持って。 N記

アスベスト考-2


過去のコラムより
06.1.24


「貴方がここで出されたり購入したりする飲料や食物には、がんや
先天性欠陥症の原因となる化学物質が含まれていることがあります」

カリフォルニア州のホテルで、部屋にあるルームサービスメニューに、
「警告」の文字と共にそう書かれていた。

さらに、「フ レンチフライなど、高温で揚げた食物は、がんの原因と
なるアクリルアミド等を生成し、、、、ほとんどの魚介類にはがんや
出生異常を引き起こす水銀が含 まれています。特に子供や妊婦は
メカジキ、サバ、甘鯛などは避ける必要があります。、、、、、、
ビールやワイン等蒸留酒もがんのリスクを大きくします」
と、細かく記載されている。

別のホテルでも同じように「警告」と書かれたページが部屋の小冊子に挟んであった。
 
カリフォルニアで弁護士をしている知人にその話をしたら、州の条例で
そう書かないといけないことになっているのだという。いかにもアメリカ
らしい裁判対策であるとも受け取れるが、彼は続けて、

「道 路の脇に敷いてあるじゃりが見えるでしょう?この両脇にずっと続く
緑色の石はアスベストの原石で、これが大きな問題になっているのです。
カリフォルニ アに広く分布している石なので、その繊維が車の通行によって
細かくくだかれて飛び散ったり、地下水にも含まれる可能性を指摘されているのです」
と言う。

カ リフォルニアでは州政府が危険性の明記を定めているということだが、
いわばこれは世界のどこででも起こり得る危険性だろう。化学物質にいたっては
タバコに 限らず様々な物質ががんの危険性が指摘されているし、調べてみると
アスベストは日本でも熊本県宇城(うき)市で1970年まで採掘され、
石綿製品の製造は 1983年まで行われている。

イギリスの鉱山会社ケープ社はイギリスの石綿工場を68年に閉鎖したのに、
南アフリカでの操業は79年まで続けたという。その主な輸出先には
日本も含まれた。

ア スベストは日本中で、また世界各地で石綿は安価で便利な材料として
使われてきたのだ。身の回りに存在するのだから、個人のレベルでは
せめて防塵に注意をは らう、とか他に飛散するのを防ぐように取り扱う
とかを心がけるしかないだろう。これからも、今まで日常に使われて
いたものがある日突然危険だと判明するこ とが出てくるかもしれない。

陶芸の材料原料では扱い方によって危険 なものが沢山ある。鉛もかつて
幅広く釉薬に使われていたし、毒性のある原料もある。セラミックファイバーや、
それ自身に毒性のない原料でも粉末を吸い込ん では危険だし、また素手で
取り扱ってはいけないとされるものも数多い。アメリカの大学や教育現場では
粘土の粉が工房に散らからないよう、または清掃は防塵 マスクをするように、
と細かく注意される。

新聞の報道を見るにつけ、危険は遠いところの出来事ではないのだから、
自分や身近な人の健康を守るために出来るところで出来ることをしていく
ことが大事なのだ、と思ったことだ。


アスベスト考-1

過去のコラムより
06.1.24


アスベストの被害が明らかになってきている。ヒュース・テンでも

こんなことがあった。技術の人と二人で関西のある陶芸家のところに

エレメント交換に行った時のこと。
出張交換の依頼の電話を受けて、

「そちらでは以前窯にセラミックファイバーを巻いていらっしゃい
ましたよね、、、」と言いかけると

「あ、はずしておきます、はずしておきます」との答え。東京からの
日帰り仕事なのですぐに仕事にかかれるよう配慮してくれたのかな、
と思って電話を切った。

当日、そこに伺うと、まだ窯のまわりにはセラミックファイバーが
まいたまま。ふたのところだけ針金を外してある。窯を分解して
エレメント交換をするので、技術の人が巻いてあるセラミック
ファイバーを外していたら窯のオーナーが、

「これってアスベストですかね、セラミックファイバーでしょうか」と聞く。
「さあ、アスベストはテレビでしか知りませんが、セラミックファイバー
じゃないですか?以前使っていらしたのですよね」と私。

さわってこすったりつぶしたりしてみたがよく分らない。アスベストは
見た事がないのだし。セラミックファイバーよりちぎれやすくふわっと
している気がしたがまあ古いからだろう。

何年も前、アメリカの窯をそのまま持ってきたが温度が上がらない、
どうしたら良いか、と問い合わせを受けた時に、改造には費用がかかる
ので、低温焼成をするだけならセラミックファイバーでも巻いたら
多少違うのでは?とアドバイスをしていた。
その後新しい窯をうちから買ったので温度は十分上がるはずだが、
とってあったのを使ったのだろう。

技術「もう10年以上前からアスベストなんて買えないと思いますよ、
禁止されていますから」

オー ナー「いやあ、○○(陶芸用品の会社)に電話したらすぐ送って
きましたよ。簡単に。それに、うちでは叔父が退職する前大量に
アスベストもらっておいた んです。叔父が勤めていたのはあの、
騒がれているクボタなんですよ。溶鉱炉にまだ沢山使ってましたから。
私なんかもうそれを沢山吸い込んでいますよ」

私「、、、?」

吸い込んでも影響が出る頃にはもうこの世にいないかもしれないし、、と
冗談を言ってその人は家の中に引っ込んでしまった。

今の会話からすると、その大量にもらったというアスベストはどうしたの
だろう。○○から買ったというアスベストの行方は?

その陶芸家はゴム手袋をしてつなぎを着てゴム長をはいていた。最初、
どうしてこんなかっこうをしているんだろう、と一瞬不思議に思ったが
すぐ忘れて作業を始めていた。
私にバッグを玄関に入れるように言ってくれたけれど私はファイルが
入っているので窯のわきに置いたまま。

セラミックファイバーのちぎれたかけらがまわりに飛んでバッグの中にも
入り、服も手も髪の毛にもかかっている。

新しいエレメントを張る前に私たちは、持って行った掃除機で窯の中を
きれいにする。
小さな掃除機の排気口が窯の中の空気をかき回し、ちくちくするセラミック
ファイバーが顔中に当たる。吸い込む。

窯の中にも外にもちぎれて綿のようになったセラミックファイバーが
沢山あったが、窯の底に敷いてあるのは保温の為だろうと思い
そのまま残し、仕事を進めた。

クボタからもらったアスベストは?いとも簡単に送ってきた、という
○○のアスベストは?どうも、いつも私はすぐには気がつかない。
後から疑問が湧いてくる。

その次にその人が玄関から出てきた時、「○○から買われたアスベストは
どうなさったんですか?」と聞いた。

「そこに巻いてあるのがそうですよ。叔父からもらったのも一緒に(!)」

えっ?私たちがセラミックファイバーと寸分も疑わずに素手で取扱って
いたのはアスベスト?
そこまで言われてもまだ私は半信半疑だった。

そうなら、何故、私たちにこれはアスベストと思うか、それとも
セラミックファイバーか、と聞いたのだろう。アスベストと判っていたのに?
事情を把握していたら、東京から防塵マスクを準備し、着替えの服を持ち、
十分な用意をして出かけてきたのに。

作業も、窯の空気をかき回すことや周囲に散らすことを極力避けて
注意して進めることが出来ただろう。

今もってその人が何故私たちにアスベストかセラミックファイバーかと
聞いたのか判らない。きっと自分でもアスベストと判っていながら、
どこかでそうでない、と思いたかったのだろうか。または、私が
セラミックファイバーと思い込んでいたので言い出せなかったのだろうか。

私たちは帰り、コンビニに寄って手や顔やTシャツの肩まで洗った。
持っていたタオルもそういえばアスベストが沢山ささっているのだった。
着替えもなくシャツをぬいで叩くわけにもいかない。バックの中もざらざらだ。

技術の人は何も言わなかったが、私は健康にリスクを負わせてしまったことで
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。まさかアスベストにふれるなど夢にも
思わなかったがそれは言い訳にはならない。不注意だった。

その陶芸家は私たちに対して人間的に誠実でなかった、と思う。けれど
お客様であることには変わりない。うちの電気窯を使っている限り
窯についての質問や疑問があれば自分で判断せずにうちの技術にきちんと
聞いて欲しい。安全に使って欲しいから。部品の補充もあるだろう。

ということでこの出来事は勉強になった。出張の時はもっと注意して、
何事にも対応できるような準備をすること。それにほんの少し前まで、
アスベストは身の回りにごくありふれて使われていたのだと実感した。

すでに所有している人は捨てる事も出来ず途方にくれているかもしれない。
現在使われているアスベストをどうすれば良いのか。個人の力では
対処しきれないことを、政府は堀江さんいじめよりも早急に真剣に考えて欲しい。



再びルーシー・リー展

過去のコラムより
05.9.10


「2002年の「ル−シー・リー展 静寂の美へ」に続き今回も、9/10日から
始まるニューオータニ美術館の「ルーシー・リー 器に見るモダニズム」を
お手伝いさせていただいた。

カタログもヒュース・テンで編集発行する。その写真撮影を信楽展で
実現出来なかった畠山崇さんにお願いすることにした。アメリカと日本を
行き来する仕事の合間に東京に来られた一日、無理をお願いして美術館に
来ていただく。 

畠山さんのシャープで緊張感あふれる写真はまさにルーシー・リーの
作品にぴったりだ。時間と予算の関係で10カットを撮るが、あとから
集荷される作品は間に合わない。そこで友人の紹介でカメラマンA氏に
残りの写真を撮っていただくことにする。

「いつも手伝ってくれるわけではないんですが、ルーシー・リーの
作品は見たい、と言うので」ということでA氏の奥様もアシスタントとして
一緒に来られ る。撮影は一日。撮れるところまでということでディテールも
含めてかなりの数を撮っていただく。展覧会のカタログとして私が企画
した中では初めての、デジ タルによる写真となる。(「あとの」を取る)
その撮影にも間に合わない作品はディーラーの方がすでにもっている
データを使わせてもらい、また「目の眼」の カメラマンによる写真もお借りする。

カタログのデザインは前回のルーシー・リー展の会場設計も手掛けている
アトリエ71。デザインは建築家の視点なのでいつもおもしろい発見があり
評判が良い。

しかしなにしろ時間がない。言い訳にはならないが、写真の時間もない、
原稿にも時間をかけられない、ロンドンからの借用もぎりぎり。作品の
写真はもちろ ん間に合わないので送られて来たデータで入稿。最終校正が
月曜、オープンの土曜の朝ぎりぎりにカタログが届く事をひたすら願って
、というタイトスケジュー ル。

けれど今回は「静寂の美」で大きな人気を誇った一点を除いて多くが日本で
始めて紹介される作品である。バラエティーに富み非常に作品の質が高い。
またもう一つの見どころはバーナード・リーチのルーシー・リーに宛てた
最後のメッセージが世界で初めて公開されることだ。

このメモの重大性を見る時、捨てられたかもしれないこの手紙の下書きを
よくぞ探し出してくれた、そしてよくそれをルーシーに届けてくれた、と
この秘書の勇気に感謝せざるを得ない。それがなければこれは誰にも
知られる事無く処分されていただろう。

リーチが亡くなる3週間前に秘書に口述させた、この、ルーシーへの
手紙によって当時のリーチやルーシー、リーチの妻ジャネット等の状況が
明らかになる。 背景についてはまだ語れない部分はあるが、この手紙を
読めばそれ自体が語るだろう。読む人それぞれが解釈すれば良いのだと思う。
このメッセージの存在が明 らかになったのはつい一ヶ月前のことだった。
展覧会でご紹介できるのはとてもラッキーだ。

またモダニズムという観点からバウハウスの視点を体現するイームズの
椅子を会場に置き、自由にすわっていただく、というコーナーもデザイン
されている。 椅子にすわって目線に見えるルーシー・リーの作品が
シルエットだけでいかに美しいか、いかにルーシーらしいか強い印象を
見る人の心に刻み込まれることだろ う。

会場に入って正面には色の華麗な作品、左手には白やドロマイト釉の作品、
奥の部屋はレースのカーテンがかけられヨーロッパのどこかの家庭に、
ディナーウェアがならんでいる、という趣向だ。

70才代でこのような華やいだ作品を作ったルーシー・リーという作家の
偉大さに改めて感銘を受ける事でしょう、みなさん、どうぞ見にいらして
ください。美しさに思わず息をのむ作品群に出会えます。」

会社にとって最も大切なこと

過去のコラムより
05.6.11


ヒュース・テンのホームページがリニューアルされ、コラム欄を
書く事に なった。ヒュース・テンという会社として、と同時に会社を
離れた立場からも 陶芸・美術の折々を記していきたい。

近頃新聞を賑わせたライブ・ドアとフジテレビの動きの中で
「会社は誰のものか」ということが話題になった。「もの」という
言い方は おかしいが、それぞれ立場によって、主体は株主である、
いや、経営陣だ、 あるいはリスナー(日本放送の場合)である、等。
これは会社の規模や 職種、社会的条件等、立場で変ってくるだろう。

しかし「会社にとっても最も大切な事」は会社の規模や条件に関わらず
共通していると思われる。それは会社が存続する事。存続して常に 変らぬ
(より良い)サービスを提供できる事、につきると思う。 ヒュース・テンは
常に「使う立場に立つ」事を意識している。ユーザーに とってどうか、
使い易いか、自分がユーザーだったらどう望むだろう、 と。そして
その姿勢を可能にするのは「会社が常に在る事」だ。

10年ほど前、ヒュース・テンのエクセルキルンと同等のスカット窯を
初めて日本に紹介した陶材人という会社があった。陶材人が諸事情から
会社を止めて窯の修理やメンテナンスの依頼先が突然なくなった時は
ユーザーたちの 間で大きな問題になった。急に連絡がとれなくなった為、
窯について問い 合せることも、エラーメッセージの内容を聞く事も
できなくなったのだ。

その頃雑誌に掲載していたエクセルキルンの写真を見て「写真を見ると
自分の窯と似ているが自分の窯の修理をお願い出来るだろうか」という
問い合せ をかなり受けた。「聞くところもなくどうしたら良いか
とても困っていた、 本当に助かった!」と。それまでに陶材人は
沢山の窯を販売していたので 多くのユーザー達が途方にくれたのだ。
「お宅はなくならないでしょうね。 頼みますよ、続けてください」とまで
おっしゃる方もいた。それだけ困っていたと いう事だろう。

実際その当時スカット窯にはいろいろ 問題が生じていて原因を探るため
アメリカから 調査員が送られてきたほどだ。メーカーでも結局はっきりした
原因はわからず、 日本独自の磁場が関係しているのでは、というに
とどまった。ヒュース・テンの 技術はコントローラの変更に伴う一時的な
ものだったのではないかと見ている。 そんなこともあって陶材人は自社の
「陶材人窯」を開発したが結局それもうまく いかなかった。

陶材人とヒュース・テンはいわば窯に関して競合する立場にあり、
また陶材人の 倒産によって未収金の損害も受けた。しかしそのオーナーである
イギリス人、 ホランドさんは良くも悪くも非常に魅力と才能に溢れる人だった。
ヒュース・テンでは 以来スカット窯や陶材人窯の修理も受けて来たが、
同じように損害を被った人たちに、 半ば懐かしんで「ホランドさんは
どうしているんでしょうね」と聞かれる事がある。 ホランドさんは会社を
閉じる前、毎日毎日ヒュース・テンに電話をしてきた。決まって
「商売どう?」と言って。正直その回数と長さ(話しだすと30分にも
40分にもなった) に閉口することがあったが、それはそれで電話がないと
「どうしたのだろう?」 と思わせるような憎めない人だった。ホランドさんに
ついてはまた別の機会に書こうと思う。

会社が存続するという事はユーザーにとっても、また社員にとっても大事な事だ。 その責任を重く自覚して業務に励みたいと思っている。






Most beautiful and Most cruel

過去のコラムより
04.3.5 「Most beautiful and Most cruel 最も美しく最も残酷な写真」
      イラク侵攻の朝に


写真はNew York Timesより

掲示板でイラクのことが話題になっていますので、New Yorl Timesの一面で大きく掲載されていた
写真をご紹介します。美しく晴れ渡った空、緑の野、のどかな背景に人々の姿。
けれど、タイトルには、戦争を逃れてき た家族とあります。
アメリカがイラクに侵攻した日の新聞。